2020/7/6 差別と偏見

おぎゃーと産まれた時は快、不快だけで物事を判断している。

 

成長するにつれ、快、不快が正しい、正しくないの二択になり、いろんな大人の偏った刷りこみが世界の基準かの如く自分のものさしになっていく。

 

そこに何の疑いもなく、だいたいの人はそんなもんです。

 

つまり、だいたいの人は偏っているんです。

 

生まれつき赤いサングラスを掛けて物事を見れば、リンゴは見えない。

 

両親の、あるいは身近な大人のサングラスの色に影響されるのはしかたないことです。

 

子供に選択の余地はないから。

 

そしてそのサングラスは偏見に変わっていく可能性が高い。

 

その偏見が世界の基準と思い込むと、それ以外を排除するようになる。

 

ここに差別が生まれる。

 

自分の基準は自分の基準であって、世界の基準ではないことを、どこかで気づいて欲しい。

 

私は赤いサングラスを掛けていたんだー、僕は青いサングラスだったんだーと気づけばOK!

 

自分にも偏りがあることを受け入れつつ、他者の基準を理解したい。

 

私とあなたは違う、その上でどうやって上手くやって行けるかにエネルギーを注ぎたい。

 

相手を非難したり否定しても解決しない。

 

偏見も差別もあるよね、しゃあないよね。

 

あるを前提にどこまで許容範囲を広げられるか、ここが肝心。

 

違いをおもしろがれたら最高なんだけど。

 

自分と違うから、信仰が違うから、性が違う肌の色が違う、学歴、出身、、、、いくらでも差別できる。

 

どれが優で劣なのか、誰が上で誰が下なのか、、、いつもものさしで測っていなくちゃいけない。

 

しんどいわ。

 

差別と偏見、ゼロにはならないだろうけど

 

相手を傷つけるようなことはしたくないなあ。

 

100年経っても同じ差別で傷つけ合っている。

 

100年後もやっぱり同じかもしれない。

 

でも、せめて私の周りではお互い許し合える関係がいいなあ。

 

 

 

 

 

「武器よ去らば」1932 この時代に勇気ある作品です。

 

いっしょに ゆっくり poco a poco

 

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コメント: 1
  • #1

    藪谷 淳 (水曜日, 15 7月 2020 16:54)

    ・テーマとは少し違うかもしれない。A小学校の校長先生との会話。児童の父兄を学校に来てもらうように依頼した。要件は給食費未払いや子供の問題について話した。帰る際に父兄が発した言葉は、「この1時間パートに行けば千円もらえた。校長先生払ってください」あきれて言葉がでなかった。偏見なのかわがままなのか恐ろしい世の中になる。
    ・少年野球の世界でもある。父親・母親のみならず、祖父・祖母までも自分の子供や孫さえよければいい。逆に自分の子供や孫が叱られるとなんでうちの子ばかりという。いつも�ってばかりいるのではない。たまたま見た1回がすべてだと思う。その理由にについて聞く耳はない。ボランティアで指導している監督が気の毒である。
    ・大事なことはスポーツであれ音楽であれ何事も好きになることが第一である。好きになれば努力するし、いろいろな苦しい場面をクリアーできる。若い人の夢や可能性を偏見でつぶさないでくれ。